BROたんカラフル日記
色彩講師である私(サリ)がCOLOR[色彩]中心に、眼鏡の旦那(たかし)がBROMPTON&BD-1[折り畳み自転車]中心に、それぞれ勝って気ままに綴った”ぐたぐた”ブログ。
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鎌倉巡りの巻-神社&寺編【その14/常楽寺】

中国から渡来して来た禅僧
12月11日晴れ。飽きずに古都鎌倉ポタリング。今回の時空を超えた散策は北条関係。住所で言うと鎌倉市大船5丁目8-29。“常楽寺(じょうらくじ)”を訪問。鎌倉駅から自転車で15分程。結構遠い。でも、歴史ある観光地を漕ぐのは楽しい。鎌倉幕府三代執権・北条泰時が夫人の母の供養の為、1237年(嘉禎3年)創建した「粟船御堂(あわふねみどう)」が始まり。だから、開基は北条泰時。その後、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)を寿福寺から招いて臨済宗の寺に。蘭渓道隆は、建長寺を開く前にこの寺に住み禅を広める。寺には多くの僧が蘭渓の教えを乞うために訪れたとの事。その後、1253年に建長寺が創建され、同寺が鎌倉における禅宗の中心寺院になるが、それ以降も臨済宗建長寺派においては「常楽は建長の根本なり」と言われる。寺の山号の「粟船山(ぞくせんざん)」の頭の2文字「粟船(あわふね)」が現在の「大船(おおふね)」という地名になったらしい。
さらに詳しく蘭溪道隆
蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)は鎌倉時代中期の南宋(四川省)から渡来して来た禅僧・大覚派の祖。諱は道隆、道号は蘭渓。南宋の西蜀(四川省)出身。諡号は大覚禅師。1246年(寛元4年)33歳の時日本に渡来し、九州筑前の円覚寺、京都の泉涌寺、のち執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺の住持に。1253年(建長5年)建長寺が創建されると開山に。建長寺は、禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であったらしい。一時期元からの密偵の疑いをかけられ伊豆国に逃れ、その時修禅寺の改宗を行う。のち京都建仁寺で後嵯峨上皇に宗要を説く。さらに、寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持に。一時、讒言により甲斐国(山梨県)に配流され、東光寺を再興。北条時宗の後援で建長寺に再住、円覚寺建立のために寺地を選定(開山は無学祖元)。1278年(弘安元年)寂、66才。
京都禅と鎌倉禅
日本に伝来した禅宗の代表的な2つは臨済宗と曹洞宗。臨済宗は2度入宋して臨済禅を伝え帰った栄西によって、曹洞宗も同じく鎌倉時代に宋に渡って帰国した道元によって日本に伝えられる。栄西は鎌倉において、北条政子の寺である寿福寺の住持となり、のち1202年(建仁2年)に源頼家によって京都に建立された建仁寺の開山に。栄西の京都禅に対して、鎌倉禅を広めたのが、中国より渡来した蘭渓道隆と円覚寺開山の無学祖元。坐禅に徹するのが特徴の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に、臨済宗は時の武家政権に支持され広まる。その後時代を下り、現在の臨済宗は江戸時代に白隠禅師によって再建されたものとの事。

鎌倉幕府の基礎を築いた名執権
上の写真は本堂裏にある第3代執権・北条泰時が眠る墓。泰時が活躍するのは39歳から。遅咲きだ。1221年(承久3年)朝廷が鎌倉幕府から政権をとりもどそうとした承久の乱で、泰時は幕府軍の総大将として活躍。後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入る。それが39歳の時。戦後、泰時は朝廷を監視する六波羅探題(ろくはらたんだい)北方として就任。六波羅探題(ろくはらたんだい)南方には共に上洛した叔父の北条時房が就任。1224年(貞応3年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。尼将軍北条政子は周りの勢力を泰時への支持に確約させ、北条泰時を第3代執権に就任させる。42歳の時。伊賀の方らを謀反人として処罰。1225年(嘉禄元年)6月に有力幕臣・大江広元が、7月には政子が、それぞれ死去。幕府は続けて大要人を失う。泰時は難局にあたり、叔父の時房を京都から呼び戻し、自分と並ぶ執権の地位に迎え、後に執権を助けて協力する役職の「連署(れんしょ)」に任命。泰時は重要な政務を話し合いで決める役職の「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を選び、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とする。さらに、泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、1232年(貞永元年)8月、51ヶ条からなる武士の法律『御成敗式目』が完成。その後の武家社会の規範になる。1242年(仁治3年)に四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を新たな天皇として即位させる。この天皇擁立の問題により病弱に。1242年(仁治3年)の死去。承久の乱ではじまり承久の乱で終わるといったところか。とはいえ、強力だった後白河、後鳥河院政の実質的機能が失われた承久の乱以降、幕府は貴族・寺社等の旧勢力と地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、両者の対立を調停する権力として君臨し続ける。そのバランス感覚たるや秀逸だ。1224年の第3代執権就任が42歳で、1242年(仁治3年)の病死が60歳。源頼朝が築いた鎌倉幕府の土台を安定させたのは、間違いなく北条泰時。約18年間の長い執権政治を維持したのだから。
ちなみに和歌は藤原定家を師とし、定家撰の新勅撰集に三首入集。以下はその一首。
「思ふにはふかき山ぢもなきものを心の外ほかになにたづぬらむ」(新後撰1370)
(仏道に思いをかける点においては、人里も深山もないだろうに。心以外の場所に何を求めるというのか。)

・本堂の裏の北条泰時墓。合掌。

・本堂前の「開山・蘭渓道隆お手植え」の銀杏。

・真っ赤な実をつけた万両。

・最高の冬晴れ。
(たかし)

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